物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。

部屋や服や持ち物に気ままに最小限主義を取り入れる男性ミニマリスト系ブログ。断捨離の記事もそこそこ。あと、創作ヲタです。

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物を捨てきれないなりにミニマリストを目指していこう

      2015/04/08

このたび、当ブログ「物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。」を開設いたしました。

はじめまして。管理人の ないなり でございます。

本編に入る前に広告です

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本編入ります

何故「目指す」なのか

さて、初記事ということですので、まずはこのブログの趣旨についてご説明しなければいけません。

ブログのタイトル

このブログは、タイトル通りミニマリストを目指していくブログです。

世にミニマリストブログは多々あれど、それらはもはや辿り着いてしまった極限の人々です。一方で、大多数の人はミニマリストを目指す過程にある、いわばミニマリスト予備軍であるわけで、そういう「ミニマリストになる過程」というテーマを扱ったブログがあってもいいんじゃないかなと思った次第です。

今回の記事では、この「ミニマリストを目指す」というアプローチにフォーカスした理由について書きたいと思います。

あくまで「目指す」というところがポイントです。

辿り着かなくてもいい

ミニマリスト=最小限主義者

まず、もはやここまで概念が浸透した今となっては言わずもがなかもしれませんが、ミニマリストとは最小限主義者です。

断捨離やシンプルライフを突き詰めていった更に果てであり、全財産がトランク数個、場合によっては一個未満におさまるような状態。最小限の所有物しか持たない人々。それがミニマリストです。

目指すだけでメリットが多い

しかし、ここまで辿り着かなくても、ミニマリストを目指すことは自分のライフスタイルを最適化する上で有用です。

多くのライフハックが、主婦のかたがたの台所テクニックに応用できるように、ミニマリスト的な方法論は、非極限の人々である我々の生活にも充分転用が可能です。

あんまりミニマリストであることにこだわるのは、ミニマリストっぽくない

極論ですが、自分にとってよりよいライフスタイルが実現できたら、それ以上ミニマリストを追求する必要はないと僕は考えています。

それはミニマリストになるためのミニマリズムであり、「最小限主義」に捉われている、つまり、執着を生んでいる時点で、むしろミニマリズムから遠ざかる行為に思えるからです。

実体がないから所有していないとは限らない

デジタルデータは所有か?

これは、最近特にKindleを使っていて感じるのですが、「どこまでを所有と考えるか」は深遠なテーマです。

Kindle本の母体はサーバにあり、我々はそれを各端末にダウンロードして読みます。このKindle端末上のデータは質量を持たないが、これは所有か。

個人的には、「いや、端末上のデータであってもそれは所有なんじゃないかな」と思っています。

僕らがそれを物だと思う限り、それは物

というのは、仮にただのデータであっても、僕はそこに執着を感じるからです。質量は持っていませんが、「そのデータが書籍である」という信仰を持つ限り、それは書籍と考えていいと思います。

これは既存の貨幣制度と同様で、貨幣が価値を持つのは、国がその価値を保証し、我々が貨幣の価値を信仰するからです。

同じように、データの実態が単なるバイナリの集合であったとしても、我々がそれを既存の所有物の延長線上で認識し、そこに信仰が成り立つのであれば、それは原理的に「質量ゼロの所有物ひとつ」としてカウントするのが自然かなと思うのです。

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続きます

所有とは、僕らの脳を占める質量である

糸のように僕と物を結ぶ「所有」の意識

所有欲、執着とは若干ニュアンスの違う概念として自分は捉えているのですが、「その物と自分が繋がっているかんじ」というのを、僕は自分の所有物に対して強烈に感じます。

それは、自分の頭部から見えない糸が所有物に伸びているような感覚で、基本的に重ったるいものです。これは、突き詰めると、「この物体は、自分が所有しているのだ」という僕の自覚であり、意識であるのだと思います。

所有意識の大小こそが精神的な質量=重ったるさだ

この「所有しているのだ」という自覚であり意識は、実際の所有物が何であるかとは関係ありません。この意識は、僕の有限の脳の一部を占めています。

言ってみれば「所有することの重さ」というのは、実際の所有する物がどんなものかとか、大きさはどうかとか、どのくらい合理的で使い勝手がいいかとかではなく、この脳=意識の上で食う容量(メモリ)がどの程度多いかで決まるのかなと思います。

いわば、精神的な質量です。

糸が伸びているから、重ったるい

目の前から物が消えても、糸(所有意識)が伸びていれば、重ったるい

このように、所有のジャッジを意識下での容量(メモリ)=精神的な質量で考えると、たとえば貸コンテナに荷物をあずけようかと検討した時に感じる重ったるさを説明できる気がします(実際に、利用したことはありません)。

貸コンテナに収納された荷物は、自分の目には見えないし、狭義の意味で自分の現状の所有物ではありませんが、多分、自分はその退避して視界から消えた荷物が自分の所有物であることを覚えています。見えない糸がつながっていて、その糸が貸コンテナまで伸びています。目に入る範囲に存在しないだけで、意識の中では、まだ容量(メモリ)を食ったままなのです。

目の前から物が消えて、糸(所有意識)が細くなることはあるかもしれない

逆に、貸コンテナを利用した際に、物を所有しすぎている「所有疲れ」からいくらかでも解放されるのだとしたら、それは「視界から物が消えた」という効果によって、意識下の容量(メモリ)が解放されたからだと考えられます。実態がどうかより、意識下でどの程度領域を占めているかが全てなのです。

全てをアウトソースしても、ミニマルではないかもしれない

ということは、たとえば仮に全てをアウトソースし、漫画・書籍はネット喫茶と図書館で済ませ、情報源はインターネットから得、食事は全て外食で済ませるようなライフスタイルであっても、そこに変な愛着や帰属意識や疑似的な所有意識が発生した場合、それはもはや厳密にミニマルとは言えないのではないだろうかと思うのです。

自分と対象物への見えない糸が発生した時点で、実際の所有者が誰かに関わらず、意識下では物にスペースを占領されています。実際の荷物はトランク一個でも、意識の自室は物で散らかり放題なのかもしれないのです。

所有しつつ、所有しない

実際の質量より、脳の質量(所有意識)をミニマルにしたい

前置きが長くなりました。

つまり、逆にいえば、どんなに物を所有していても、自分の所有意識と切り離すことができれば、それはミニマリズムと相反しないと、僕は考えるのです。

たとえば、僕はルームシェアをしています。このため、住まいにおいて僕が囲まれている物の量は、単純計算で一人暮らしをされているかたの二倍です。しかし、もちろん僕は、ルームメイトの所有物に対して、所有意識を持っていません。

他人の荷物は僕の部屋を占領するけれど、僕の脳を占領しない

同じように、人から一時的に預かった荷物が部屋の中にあっても、そこに所有意識をおぼえません。それは、たまたま僕の部屋に一時的に居候している「誰かの物」さんであり、電車で移動中、隣に座ってきたおじさん程度の存在感です。

もし、その荷物が仮に二畳を占領した場合、僕は「僕のパーソナルスペース六畳の内二畳が物に浸されている」と考えるのではなく、「僕のパーソナルスペースは今四畳である」と考えます。自分のパーソナルスペースから切り離してしまえば=所有意識を持たないのであれば、それはもはや僕の物ではないのです(これは貸コンテナの場合にも言えます。「貸コンテナにあずけたものは、もはや自分のものじゃないね」と思えれば、所有の糸を切り離せるからです)。

自分の家というジャングルに住めばいい

つまり、雑多な物に囲まれていても、所有意識との折り合いをうまくつければ、まるで他人の家で暮らしているような、家の中でジャングルでサバイバルしているような精神状態を確保できるのであれば、それは物質的にミニマリストと呼べなくても、ミニマリズムを体現していると考えてよいと思うのです(実際には、そこまで所有意識を切り離すのは難しいかもしれませんが、そう考えることでより自由にはなれます)。

ミニマリストを殺すセリフ「物持ってますよね」の指摘を恐れる必要がなくなる

仮に他人が「そんなのミニマリストじゃないよね」と言ったとしても、自分の中で所有意識の糸が切れている確信があれば、「人がどう思おうと、自分の意識下には余計な物ないんで」というスタンスを維持できるかと思います。

こうすれば、「意外に物持ってんじゃん」とつっこまれた時に「自分の場合、○○だからどうしてもこれは捨てられなくて~」などとイイワケをする必要もなくなります。

既にミニマリストを自認しているかたも、皆さん、思わぬ点でこのイイワケをしなければいけない局面に出くわしたことがあるんじゃないかなと思います。自分がミニマリズムを体現できているかは、ミニマリストにとってアイデンティティと直結したテーマだからです。でも、僕はもっとラフに考えていいと思っています。物を持っていたからといって、いちいち自分のミニマリズムを疑う必要はないのです。糸が伸びているか、意識の質量を占めているかで判断すればいいのです。

まとめ

というわけで、この記事では「ミニマリストまで行かなくてもミニマリスト的な発想でミニマリズムを志向するのは広く有用」という点と、「別に物理的に最小限しなくてもミニマリズムを体現することは可能だと思う」という点についてお話しさせていただきました。

もっと簡単にいえば、「無理ない範囲でとりいれれば幸せ」「見た目より中身」ということですね。

以降、このブログは、この観点を下敷きとした上で、僕にできる範囲での地道なミニマル志向、あるいは皆さんにとって身近で試しやすそうなミニマルテクをご紹介できればと思います。そうしている内に僕の中でパラダイムが起こり、結果的に無理のない物質的ミニマルが実現できるのであれば、それはそれでアリだなと思います。

いかがでしょう。皆さんも、今日から身の丈の自分に合ったミニマリズムを実践してみませんか?

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