前回、「どうつきあう?ミニマリスト志向者とブログとの距離感2015年3月版」という記事で、ブログとの付き合い方について書きました。これは、その後編記事です。
ミニマリストブロガーは、限りなく自分の周囲をミニマル化していく過程で、しばしばブログとの付き合い方という問題にぶち当たります。ブログに関わる時間は無駄に思えるからです。この時間は断捨離するべきなのか? でも、最近自分はこの時間も楽しいなと思えてきて、ブログへの執着とうまくつきあえるようになってきました。
それは何故なのかについて、引き続き書いていきたく思います。
今までブログに書いてきた記事数が安心感をくれる
資産がないと将来が不安になる
何故ブログを書くことが重荷にならないのか。あらためて考えてみると、記事のストックが徐々にたまってきたことが安心感につながっているのかなという気がします。
あれはたしかロバート・キヨサキの「金持ち父さん」だったかと思いますが、資産がないと人生が不安になるといった一節がありました。たしかに、先の見通しが立たず、手持ちのカードが少なければ、人生の不安は多いでしょう。
ロバート・キヨサキは、成功者特権といいますか、結構矛盾することも平気でばんばん言っちゃっているなーと感じることがあるのですが、この点にはシンプルに共感します。
ブログの記事数は、純資産
この考え方に則るなら、ブログにとって、溜まっていく記事数は資産です。それも一度投資すれば減ることはない純粋な資産といえます。
当ブログも30記事を超えた辺りから、なんとかブログとしての体裁が整うようになりました。といっても、まだ50記事にも達していませんが、賑やかしのzenbackを外しても、自ブログの記事だけで回せるくらいにはなったのです。
打率ではなく安打数
ちょうど今読み進め中なのですが、コグレマサト&するぷ著の「アクセスアップテクニック」でも「打率ではなく安打数」という言葉で記事数の大切さが述べられていましたね。ブログのアクセス数は日によって変動しますが、記事数は積み上がっていくものです。そして、積み重ねてきた記事数は自分を裏切りません。
過去記事は僕を支える強い味方であり、僕に安心をくれます。
ブログに割く時間を無駄だと思わなくなってきた
必要以上にネットに関わる状態が「依存」なら、その時間を無駄だと思っている
ネット依存の境界線がどこにあるか考えてみると、それは「必要以上にネットに関わっている状態」を指すのかなと思えました。
「必要以上に」ということからには、必要以上の部分は「過度」な関わりといえます。「不要」や「無駄」な時間と言い換えてもいいでしょう。つまりは、浪費です。自分の人生を浪費している気分に襲われながらブログに接するなら、それはおそらく苦しく自己嫌悪を伴う時間になるでしょう。
TODOリストが、僕に「それは無駄だ」と囁いていた
僕もそういった気分になることがありました。
といっても、自分の場合、これはブログに限った話ではありませんでした。モノ作りが好きな僕は、いつでも色々なモノ作りに手を伸ばしていたからです。だから、僕のTODOリストには大量のタスクが常にたまっており、何をするにも、背後にこのTODOリストが控えていました。
ただ、こういう状況でタスクをこなしていくのは、しんどいんですよね。常に締切に追われている状態ですから。遠回りができないんです。「どんなにがんばっても時間がかかる作業」というものにぶち当たるたびに愕然としていました。「あれもできない、これもできない!」と憂鬱に思ったものです。
「なんにもしない」は、遠回りの時間をくれる。それがブログであってもいい
でも、最近はこれも大事な時間だと思うようになってきました。
今は、TODOリストをほぼ空にして、あんまりタスクを積まないようにしています。ほとんど何もしない。「なんにもしない」をライフワークにしているともいえます。日々の定まったスケジュールもなく、行き先も決めない。その時間には何を差し込んでもいい。だとすれば、のんびり遠回りを楽しむのも、それはそれでアリです。
「なんにもしない」は、贅沢な時間の使い方を許容します。
そもそもミニマリズムとは、そういうものかもしれない
思えば、ミニマリストの時間というのは、そういうところがあるよなーと思います。ミニマリズムの体現によって得た時間やお金で「何もしない」を買っている。
以前、「その空いた時間とお金で何するの?最小限主義と断捨離のゆくすえ」という記事を書きました。いわば、僕もミニマリズムによって得た時間で、必要分の「生産」と余剰分の「何もしない」を買っているのかもしれません。
デジタルデトックスという断捨離をするべきか否か
「デジタル的な肥満を楽しむ」という発想
最近、デジタルデトックスという言葉を耳にするようになりました。コトバンクで引いてみると「IT依存症を防ぐため、デジタル機器から一定期間離れる取り組み」とあります。つまり、デジタル的なダイエットです。
ただ、ネット依存症がデジタル的に肥満体なのだとすれば、最近の自分は、肥満の楽しみ方をわかり始めてきた気がします。その贅肉を美しく感じます。何故なら、その贅肉が僕にとって遠回りの結果として得た心の余裕とイコールだからです。それは贅肉であって、贅肉ではありません。
ミニマリストは極限まで所有を削ぎ落としますが、精神的にはむしろアクティブで豊かであることが多々あります。それはパーティションの再分配です。無駄を削ぎ落した結果の余剰で、心の無駄(余裕)を買っています。それが時としてネット依存の形に見えたとしても、それはそれでよいと思うのです。
まとめ
というわけで、二回に分けて、ブログとの距離感をテーマに語ってまいりました。いかがだったでしょうか。
僕は、当分、このブログに注ぐ時間を、余裕が生み出す遠回りとして楽しもうと思っています。また、別のことに興味が移るかもしれませんが、それまでは今しばらくこの気さくな道程を続けていくつもりです。その道のりが、記事を読んでくれる人にとって楽しい時間となってくれれば、なおうれしいなと思います。