物を捨てきれないなりに。

ミニマリズムは、もっとモノを持つこと・捨てられないことを楽しんでいい。

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ないなりです。

他のミニマリスト志向者のかたがたを見ていて、たまに違和感をおぼえる瞬間がありますという話をしたいと思います。

「ミニマリスト」におぼえる違和感

他者攻撃によって成り立つミニマリズム

自分と違う考え方の人を見ると、色々思うことがあったり、気づかされたりするものです。僕は、他のミニマリスト志向者のかたがたを見ていて、たまに違和感をおぼえる瞬間があります。特に、twitterを「ミニマリスト」で検索した時などによく思います。

その違和感は、モノを持つこと・モノを捨てられないことがあたかも悪のように語ったり、更に突き付けて非ミニマリスト的な感性・価値観を批判・攻撃するような風潮です。

ミニマリストじゃない別の名前があってもいいかもしれない

宗教・思想は自由であり、マキシマリズム・他の価値観を志向するかたがたが、不当にミニマリスト志向者から非難をうけるいわれはないように思います。

他者攻撃すら宗教・思想の名のもとに自由という理屈はわかりますが、そうであれば、そういう他者の否定をもってしか成り立たないミニマリズムには、僕は別の名前を付けてもいいと思います。ジェンダーフリーに擬態したフェミニズムのように、もっと言えばフェミニズムに擬態したミサンドリズムのように。(もうあるかもしれませんが)

自分のミニマリズム的には、アリ

モノを持つこと、捨てられないことも楽しめばいい

少なくとも、僕の信じるミニマリズムは、もっとモノを持つこと・モノを捨てられないことも含めて、楽しんでしまえる概念です。

モノを手放せたら楽しい。自分にとってベストなアイテムを見つけ出せたら、楽しい。その結果、生活がすっきりするのがうれしい。わかる。

一方で、意外なものが手放せなかったりする。執着が残っていたりする。自分の愛着の源泉のようなものに触れられる。そういう時は可笑しくなる。わはは、こんなもんが捨てられないとは、我ながら馬鹿だなあと笑ってしまう。そういう時、その執着が、愛着が、とても愛しくて、僕は好きです。

その馬鹿馬鹿しさも、遠回りも、でこぼこした道のりも、肩に背負った荷物の重さも、食い込む肩紐も、冗談みたいにふうふう流れる汗も、そういうままならないところも含めて、大好きです。

マリオカートでクラッシュした時のリアクション

この感覚は、結構ゲームにたとえるとわかりやすい気がします。

マリオカートでコーナーを曲がり切れずクラッシュした時、コントローラを投げ捨ててブチ切れるのか、友人らと腹を抱えて「ばっかでー」と笑い合えるかの差のようにも感じます。

自分の下手なプレイにイライラするのか、その下手さも含めて愛せるのか。僕は後者のプレイスタイルが好きだし、後者のプレイヤーです。

コントローラーを投げ捨ててもいいけど、僕は笑ってる

前者のプレイマインドは、わかる時もあればわからない時もあります。よっぽど一緒にプレイしていて辛いのでなければ、プレイマインドの違う人たちに混ざってマリカーすることも、自分は苦ではありません。だから、そのプレイスタイルいいね!みたいな記事も書けちゃいます。

もっと楽しめばいいのにーと思わないこともないですが、それは僕のプレイマインドであって、彼らのプレイマインドではありません。ただ、彼らがコントローラ投げ捨ててる時も、僕はひっそり自分自身のコースアウトに小ウケしているわけです。

まとめ

人生の名人のイメージ

人生の名人とは、失敗に笑って、傷を愛せる人間なんじゃないかなとぼんやり考えます。であれば、ミニマリストの名人とは、モノの多さに笑って、モノを捨てきれないことを愛おしめる人間なのかもしれません。少なくとも、僕の中のイメージはそうです。あるいは、それこそ別の名前がつけられるべきなのかも。

あなたは、愛してくれるだろうか

もし、これを読んでいるあなたも僕と同じスタンス、もしくは近い考え方なのであれば、笑いのツボが似ているということで、大変うれしいです。楽しいマリカーができそうです。ままならなさを一緒にエンジョイしましょう。

一方で、あなたが上述の前者のプレイスタイルを信奉するプレイヤーなら、あなたがコントローラを投げ捨てている横で、僕だけニコニコしてしまう可能性があること、あらかじめ申し上げておきます。ひとりで楽しんでしまったら、ごめんなさい。

そんなかんじでした。ではでは。

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