問1、無人島で10年暮らしました、どこまでが自分の持ち物ですか?

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今日の朝、コンビニで肉まんを二個買い、ぬくぬくと懐を温めながら歩いている時、ふとこんなことを思いました。

「無人島で10年暮らしたら、僕はどこまでを自分の持ち物だと思うだろう?」

どういう経緯でこの思いつきに至ったのかは謎ですが、この疑問は結構面白いなと思いました。

というのは、この問いにうまく答えることができれば、筆者のスタンスを色々と説明しやすい気がしたからです。何故ミニマリスト志向している割に美観に興味がないのか? 何故周囲がモノに溢れていても、ストレスを感じないのか? 最近この辺りのことを聞かれることが増えたので、この機会に、ちょっと踏み込んでみたいと思います。

というわけで、帰宅して肉まんをほくほく食べながら、考えてみました。

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無人島で10年暮らすと、人は2種類に分かれる

おおまかにわけて、無人島で10年暮らした場合、人は次の二種類に分けられる気がします。

島全体が自分の庭になるタイプ

最初がこちら。島全体が庭になるタイプです。

10年過ごした結果として、彼/彼女は島の内情を知り尽くし、島は、彼/彼女にとって巨大なホームとなります。岸辺に打ち上げられる流木は彼/彼女の所有物です。茂みの奥でごそごそ駆けている野うさぎは、まだ捕まえていないけれど、やっぱり彼/彼女のものです。

島はあくまで外界なタイプ

次にこちら。島はあくまで外界なタイプ。

この場合、その人は、たとえば洞窟なら洞窟、自作の小屋なら自作の小屋、とにかく落ち着ける自分の場所を最初に定めてしまいます。そして、いったんそこに居座ってしまえば、後は基本的に閉じこもりっぱなしです。島はあくまで外界であり、彼/彼女にとっての狭義のホームは、自分が住まう洞窟だけということになります。

庭タイプだと、他人のものにちょっかい出したくなるのかも

限りなくパーソナルスペースが肥大した状態

前者の庭タイプは、いわば無人島という特殊な環境によって、パーソナルスペースが極限まで肥大化した状況といえるかもしれません。

庭タイプと外界タイプは、どちらも持っている私物の総量は同じだけれど、見方を変えれば、庭タイプの生活は物に溢れているといえます。島全部が自分のものなのですから。

庭タイプは島の景観に気を遣う

庭タイプにとって、島の全てがパーソナルスペースの内側なら、彼/彼女は、島の景観に気を遣うかもしれません。

多分、パトロールくらいはするでしょう。海岸に流木が打ち上げられていたら、それらを脇に集めて、砂浜を綺麗にしようと思うかもしれません。何故なら、砂浜は自分の持ち物であり、彼/彼女は自分の持ち物をメンテしたいからです。

実生活でも、庭タイプは流木を片付けたくなるかもしれない

この庭タイプのようなかたは、もしかして実生活においても他人の持ち物がついつい気になってしまうかもしれません。

たとえば、彼/彼女は、海岸で流木を見つけるように、スターバックスで隣の客が乱雑にカバンの中身を広げた時、それらを片付けたくて片付けたくて仕方なくなるかもしれません。あるいは、家でふっと視界に入った家族の私物がものすごく邪魔に思えたりも。

それらは他人のものだけれど、今この瞬間自分の景観を侵しているという意味で、「自分の所有物」にとても近しい位置にあるからです。

外界タイプは、洞窟の外のことは知ったこっちゃない

気にするのは、自分のホームだけ

一方で、外界タイプは島の景観など知ったことではありません。

彼/彼女にとって大切なのは洞窟の内側で、外に広がる無人島は、あくまでこの洞窟の内側を維持するためだけに必要な「外の世界」です。

貯蓄する肉がなくなれば狩りに出かけ、薪(たきぎ)がなくなれば拾いにいくでしょう。でも、必要なものが充分に揃っているなら、特に外には出かけません。洞窟の外は、彼/彼女にとってホームではないからです。

洞窟の維持のためなら、流木を片付けるかもしれない

仮に、彼/彼女が海辺の流木を片付けたとしても、それは流木を片付けないと洞窟の生活が維持できなくなるからだと思います。海で魚を獲り、海岸に罠をしかけているなら、彼/彼女は流木をなんとかしようと思うかもしれません。そのままにしていると、仕掛けた罠を流木が引っ掻いてしまうかもしれないからです。

でも、もし彼/彼女が海で魚をいっさい獲らず、山菜と野兎の肉で生活しているのであれば、彼/彼女は流木を放置するかもしれません。だって、自分の生活にいっさい関係ないのですから。気にするのは、あくまで洞窟の維持。そして維持に必要な森の狩場です。

実生活でも、洞窟の外のことは割とどうでもいい

この外界タイプは、実生活において、周囲の景観にほとんど気を払わないかもしれません。何故なら、その景観は、彼/彼女にとって森の狩場でも洞窟でもないからです。自分に関係ない海辺の流木より、彼/彼女にはメンテすべきものが別にあります。

廊下にいつの間にか家族の私物がある? スタバで隣に座った老人の髭にクリームがずっとついている? ははっ! そんなのどうってことないわけです。それは、あくまで洞窟の外の事情です。いや、髭のクリームは、やんわりご老人に教えてあげると、意外な縁が生まれるかもしれませんが。

筆者は、典型的な外界タイプ

自宅は、小さな無人島かもしれない

もうお察しかもしれませんが、筆者は外界タイプです。

筆者にとって、自宅は小さな無人島といえるかもしれません。そこには実にたくさんの物があります。が、正直、それらの景観は、筆者にとってどうでもいいものです。それらは、必要な時だけ拾いにいくことになる無人島の薪(たきぎ)みたいなものです。筆者のホームは、もっと狭いのです。

薪(たきぎ)は拾う瞬間まで僕のものではなく、手を放せば、また無人島のオブジェクトになる

必要になれば、僕はホームの外にあるモノたちに手を伸ばすでしょう。出かける時は鞄を引き寄せ、服をかける時はハンガーを手に取ります。

でも、それは無人島で薪(たきぎ)用に小枝を拾う時のように、拾い上げる瞬間まで僕のものではなく、無人島のオブジェクトです。手を離せば、再び僕の持ち物ではなくなります。

自分のものではないから、ストレスも感じない

同じ理屈で、何故物にストレスを感じないかも説明できるのかなーと思いました。

つまり、自分のものだけど、自分のものではないからです。森のすももが前年より二倍実をつけたからといって、僕の心は圧迫されません。野兎が数を増やしても、沼の面積が二倍になっても、どうでもいい。それらは、僕のものではなく、無人島のものだからです。洞窟の維持に影響が出そうなら、慌てるかもしれないけれど。

じゃあ、僕のホームはどこまでなのか

…と、ここまで書いて、じゃあ自分の考える狭義のホームというのは、どこなんだろうと思いました。

自宅は広すぎます。というか、六畳でも広すぎます。六畳のほとんどは僕にとって無人島で、洞窟はごく一部です。デスクの周りくらい? いやいや、職場で自分のデスクがちらかっていても、大して気にしない気がします。デスクの大部分も無人島です。すると、筆者の洞窟はどこにあるのか。

自分の体の外は、ほとんど洞窟の外かもしれない

考えてみると、筆者の場合、ホームといえるのは、自分の身体くらいなのかなという気がしてきました。あとは、着ている服くらいか。…いや、でも、それも時々洞窟の外にはみ出ている気がします。

身に着けているわずかな物(それと、肩から掛ける鞄)だけが、その時その時の自分の洞窟である気がしました。

まとめ

というわけで、無人島で10年過ごした場合の二種類のタイプについて考えてみつつ、ミニマリスト志向しているのにモノの多さに割と無頓着な自分の性質を説明してみました。

ざっくりまとめると、「パーソナルスペースが狭ければ狭いほど、パーソナルスペースの外のモノはどうでもよくなるよ」というお話でした。多分、筆者は、特にせまーい洞窟に住んでいるんだと思います。

基本的に気にしない外界、けど、それでも慣れた無人島の方がいい

ここからは補足です。

そんな「世の中ほぼ外界、洞窟は自分の身一つさ」みたいな筆者ですが、それでも筆者は筆者なりに一応、外界をレベル分けしているんだろうなーという気もしました。

他人の家よりは、自分の家の方が落ち着きます。10年暮らした無人島と、行ったことのない無人島では、愛着や安心感も違うよねーということだと思います。愛着と安心感のある無人島。なんだか、それも変な響きですが。

むしろ、「洞窟の維持が全て」の外界タイプは、慣れない無人島では生まれたての小鹿みたいに震えてしまうかも? 特に筆者は臆病ですからね。

 

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ないなり
マキシマリスト的気質とミニマリスト的気質の間でゆらゆら揺れながら、日々を楽しんでいる気ままな人。

反応・感想・リクエスト等お待ちしております。

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