前回の記事「年末の大掃除で何を捨てる?二列本棚の奥は本棚じゃない話。」では、収納において管理人 ないなり が感じている「死蔵」「瀕死蔵」「仮死蔵」などについて語りました。
実は、この記事には、もう少し余談的な続きがありました。余談も含めると、記事全体が長くなりすぎてしまうので、やむなく分割することにしたのです。
その続きを、本記事として掲載しようと思います。テーマとしては別軸になるので、必ずしも前記事を踏まえる必要はありません。
今回のテーマは「物を擬人化すると、捨てにくくなるのか?」です。
執着のサイン「○○たち」
最近こんな記事を読みました。
簡単に暮らす~ちょっとミニマム~ / 物を「○○たち」という表現をする人は物をため込みやすい?
ざっくりまとめてしまうと、物を擬人化すると感情移入してしまい、物を捨てられなくなる――その感情移入のサインは「○○たち」という表現なのかも、ということかと思います。
なるほど、と思いました。
これでいうと、自分はめっちゃ擬人化しているタイプだと思います。前記事「年末の大掃除で何を捨てる?二列本棚の奥は本棚じゃない話。」は、その顕著な例ということになるでしょう。
「年末の大掃除で何を捨てる?二列本棚の奥は本棚じゃない話。」では「死蔵」の他に「瀕死蔵」「息を吹き返す」「生かす」「死なせる」などのワードが登場し、明らかに、本というアイテムを生き物として捉えている記述が散見されます。○○たちという表現も登場します。
上記リンク記事で提唱されている説に則れば、僕は本たちを擬人化していることになり(また「たち」って言った)、そこには感情移入や執着が生まれ、物を捨てにくくなるはずです。
にもかかわらず、○○たちという表現を使う一方で、自分は断捨離を粛々と推し進めています。擬人化しつつ、さっぱりと手放す。感情移入しながら、後ろ髪はひかれない。
そこで、「感情移入しつつ、手放す時は手放す」を自分が実現できているのは、何故だろう。この点について考えてみました。
元気にやってくれるなら
ミニマリズム志向する元マキシマリストという僕の出自が生み出す止揚だと思いますが、考えてみると、この「擬人化して感情移入を示しつつ、さっぱりと手放せる」というのは非常に面白い発露の仕方だなーと、思いました。その意味で、上述の「簡単に暮らす~ちょっとミニマム~」さんの記事には非常に考えさせられました。
結局、考え方次第だと思います。
たとえば、自分の場合、「他の人のところで元気にやってくれるなら……」という感覚で、売ったり譲ったりする形で手放せたものもあります。里子に出す心境にたとえてもいいでしょう。
小さい頃、僕の両親(というか父)はよく捨て猫や捨て犬を拾ってきました。この犬猫たちは、短い間我々の家族となり、やがて新しい飼い主が見つかると、迎えにきた車に乗せられ、新天地へと旅立っていきました。共に過ごした動物たちと別れることができるのは、新しい飼い主のもとで元気に走り回ってくれていると思えばこそです。物を売ったり譲ったりしている時の心境は、これに近いかもしれません。
ただ、この「他の人のところで元気にやってくれるなら……」理論はあくまで売る・譲るの話です。捨てる時の心境は、また別のプロセスとなる気がします。
「弔う」と「殺す」
たとえば、僕は、しばしば「弔う」つもりで物を捨てます。
もう明らかにぼろぼろで着れない服、痛みがひどくて売ることも譲ることもできそうにない本、つまり「捨てるしかない」ものたちです。こういうものたちをおくりだす時は、なんだか略葬に参列しているような気分になります。えてして、そういうものほど自分のお気に入りだったりするので、なおさらです。
あるいは、「弔う」とはまた別の捨て方として、「殺す」つもりで物を捨てることもあるかもしれません。
特に、「殺す」心境というのは、シンプルライフ・ミニマリストを推し進める人にとっても、わかりやすい捨て方なのではないでしょうか。過去には愛していた時期もあったかもしれませんが、今の自分は、内心、その所有物を、目障りだったり邪魔に感じていたります。僕がマフィアのドンならば、膝の上で猫を撫でながら、ごく静かにヒットマンを呼び寄せる場面です。
捨てた後に、「はー!捨ててやった!ようやく断ち切ってやったぜ」と清々しい気持ち(もしくは、邪笑い)が訪れる断捨離は、おおむね、この「殺し」タイプの断捨離なのではないかなと思います。
自分の場合、ここまで快哉はあげませんが、マフィアのドンを気取りながら「ふふふ、彼には本当に悪いことをしたね」くらいの邪笑いはするかもしれません。
まあ、おそらく生粋のミニマリストはいちいち「殺す」などと思って、物を捨てたりはしないでしょう。いわゆる「「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!」という奴です。
鳥は空を飛んで生きるもの
でも、物を捨てる時に一番ぴったりくるのは、この「弔う」とも「殺す」とも違う別の感覚です。これについては、僕の大好きな漫画に、ぴったりくるシーンが登場するので、ご紹介しましょう。
ご紹介するのは、乙嫁語り五巻二十七話「手負いの鷹」です。
ネタバレになってしまうので詳細は伏せますが、作中にこんなアミルの台詞があります。(台詞から状況が想像できてしまうかもしれませんが、ご容赦ください)
アミル「鳥は空を飛んで生きるものです」
アミル「このまま空も飛べずに人の手からエサをもらって」
アミル「それでは命あっても生きているとは言えません」
あるいは、皇国の守護者参巻 第二章「光帯の下で7」から、幼少期のユーリアとおじマランツォフの会話を例に出してもよいでしょう。
マランツォフ「ユーリア!かわいそうじゃないか、可愛がっていたんだろう」
ユーリア「走るための生き物なら」
ユーリア「立てもしないで生かされたくはないわ」
なんて高潔なエゴだろう
鷹は空を飛ぶもので、馬は走る生き物です。「弔い」においての相手が既に死んだ者達だとすれば、こちらは死にゆく者、まだ生きている者ということになります。ぼろぼろに擦り切れてもう着れない服や、もう売れない本ではなく、まだまだ着れる服、綺麗な本。でも、今の自分にとって不要で、所有物としての意義を失ったものたち。自分で終わらせない限りは、生き続けることができるでしょう。であるからこそ、振り下ろす手には決断が伴います。
鷹や馬は、人語を介しません。いわんや、所有物たちの大部分は無機物です。なので、もしかしたら、喋ることができれば「そやかて、わしら、ぬくぬく生きたいし」くらい言うかもしれません。しかし、残念ながら、彼らは喋れません。だから、そこに何らかの解釈や価値観を押し付けるのは、結局、人間のエゴです。
しかし、エゴだからこそ、そこにはシンプルな潔さがあります。冷徹で、原始的で、研ぎ澄まされた慈悲の心です。慈悲というと、普通はなんだか嘘くさくなりますが、アミルやユーリアの場合は、この言葉の方が似合うでしょう。目障りだったり、邪魔だったりするのではありません。「殺す」というよりは、「弔う」の上位概念といえます。乙嫁語りに登場する遊牧民アミルの死生観は、力強く僕を揺さぶります。そこには、草原に生きる人々の実際さと高潔さを感じます。
まとめ : 擬人化しつつ、物を捨てられる一例でした
とはいえ、特に草原に生きていない六畳間の住人である管理人は、まだまだ現代人らしく、物に囲まれて暮らしています。
それはそれでよいと思うのです。あくまで僕は僕の距離感で物と接し、時々は、そんな神妙な気持ちで物とお別れする機会もある。お別れせず、ずっと寄り添っていくこともある。「物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す」身としては、適切な距離感だと思います。
そうして、このくらいの感覚ですと、物を擬人化してそこに愛着を持つ元マキシマリストでも、それなりに物を手放せるようです。あくまで一例ではありますが、○○たちという表現を多用しつつ、それなりに断捨離している自分の場合について、ご紹介させていただきました。
ではでは。今回は、この辺で。
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